『バランス』

でぶっちょ君とがりがり君、仲良しのふたりがシーソー遊びをしています。
だけど、おもしろくありません。シーソーの板はななめに傾いたままで少しも動かないからです。がりがり君はすっかりプライドが傷ついてしまい、足をばたばたさせます。
でぶっちょ君も同じです。腰を浮かせてみるもののむなしさばかりがつのります。
ふたりが求めているのはバランスです。
バランスのなかから生まれるものは何でしょう。会話、表情、感覚、同じ目線の分かち合い。必ずしも平等ではないもの同志がそれを望むとき、それには努力も必要です。この場合、でぶっちょ君は前へ移動し、がりがり君はふたりで集めた小石の袋を抱えることにしました。ちょっぴり体勢は悪いけれどかしこいふたりは個々の心バランスもまた、きちんととれているのでした。それは思いやりであり、知恵であり、夢をかなえる力です。
体勢の悪さを犠牲ととらえた場合はどうでしょう。どのくらい自分が不快で我慢を強いられているかを訴えあう。シーソー遊びどころではありません。結局論破されたほうが大きな傷を背負うことになります。まったくの敗者として傷ついた心で集めた小石をもとの場所へと戻すのです。
世間では富の集中、貧富の格差の拡大が叫ばれています。でもそれは目に見えることで、それ以上に見えない心の索漠さの蔓延が問題です。貧しかったら安い酒を飲み、分かち合い、肩をよせあい、語りあう。溝をうめる素材はひとつではありません。そこで束になって育つ子供たちは戯れあいのなかで傷の痛みや程度、主張の駆け引き、得意分野の目覚めを実践で学び、将来また違ったアイデンティティで良質の富をもたらし、還元の意味を知るのだと思うのです。本当はそれが一番楽で有効な育て方かもしれません。今の日本では難しいですね。子供時代は大人時代のシュミレーションですから手厚い庇護だけでは嘘つきのシーソー遊びです。だからといって市販のレールに乗せることが親の仕事でもありません。教育は学校や塾の仕事ではないからです。学校や塾は預かった子供に勉強はさせても毒は飲ませません。高級な託児所のようなものです。社会は毒の宝庫です。毒の免疫や扱い方、解毒の方法は親がつけていくしかないのです。それは本当に大変なことです。ここでも親のバランスが問われます。いきなり、致死量を与えてしまう。傾いたシーソーがそうさせるのです。まずはふたりで小石を集めることです。あきらめてはいけません。地道な作業が親の愛です。でもそれは無償ではありません。親ならわかっているはずですね。彼らは先行投資というかたちで親に無類の喜びを与えてるのですから。それでもお手軽な滅菌パックで育てるつもりであるなら、なりふりかまわずお金を稼ぐことです。そしてひ孫の代まで楽に暮らしていける巨万の富を残してあげることです。
そうすれば、執事たちがきっと楽しいシーソー遊びにつきあってくれるに違いありません。
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by r_dew_1 | 2005-04-30 23:40 | A4  

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