『論理』

自分は相当論理的だと思っているのですが、周りからはかなり感覚的だと言われます。
突き詰めると自分の見解も周りの意見もそれなりの理があるので、感覚を論理とする論理的なタイプとすることにしました。そこに着地できたのも、論理的の反対は非論理的であって感覚的ではないことに気づいたからです。
とすると、関東風おもちサイズの論理的さんがが急に活たこ入道に見えてきたりするから不思議です。でもそういう発想をすると私のような感覚を論理とする論理的なタイプは餌食にしたくなるのでここではぐっとこらえます。

ある事柄を論理的に対処しましょうというとき、「論理的に対処」というインテリジェンスな響きに騙されてはいけないということです。そのまえにある「論理」の統一が強く望まれます。そのために契約書などの事前約束があるわけですが、最後の最後に、この限りではありません。なんておちゃめなひとことを忍び込ませていることだってあるのですから気はぬけません。この限りってどの限り?と聞くくらいの失礼さとずうずうしさは持ち合わせなければなりません。答えられない営業マンには、決めてから来てね。と言うか、その文言を消しちゃうくらいの覚悟は必要です。
とはいえ、普通の日常生活には契約書なんてない関係が断然多いのです。最低限のルールや道徳がその要をはたしていますが、それ以上は任意ですからときに強いもの勝ちや大声勝ちになってしまいます。そうなると押し切った論理は武器に出世します。武器になっちゃったら、もう手遅れです。そのためにアメリカなどでは子供の頃からディベートを学びます。正しさは環境や現象によっていろんな風に変化することを知るのです。そこからより良い論理を引き出す。抜け目がないのはそのせいかもしれませんが。でもこれ、まんざら悪くないと思っています。もう絵に書いた正義のゴリ押しなんかできないからです。正義はその都度善意の心でつくり出し、修正していくしかない時代になっているのです。玉虫色のリスクもありますが、大きいものに乗っかってその勢いで航海していくのはもう難しい時代になりました。
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by r_dew_1 | 2005-05-16 06:20 | A4  

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