『死』

逝く人は、死という置き土産を身近な人に託します。実は死って、逝った人のものではないと思っています。本当は受け止めた人たちのもの。薄く透き通った死の膜を自分の生に重ねる。ちょっと見は変わらなくても、確かな深みとなり、その扱い方、とらえ方で良きにも悪きにも影響していくのです。
生きている間、それはとても恐ろしいことでそこから逃げるようにして生きていきます。自分もそれをとりまく人々もひとつとして欠けることなく、できれば永遠にこの環境を保っていきたい。
この環境。若い苗木は、枝を張り葉を繁らせた緑樹に憧れ守られる。緑樹は、たわわな果実を実らせた樹木に教えを乞う。樹木は、枯れゆく老木に悟りを学び自分を知る。老木は。
老木は、その死をもって彼らすべての糧となる。実は決して欠けることも、失うこともない森のような世界なのだと思うのです。
ただ、それがきちんと意識できるか否か。今の時代、あまりにもその教育がなされていないように思います。お葬式に参列しても、身内として弔問客に立派にあいさつをしてもそれはわからないのです。生と死の間にある看取りの行為があまりにもお粗末なのではないかと。世話とか看病、介護もその一部だと思いますがそれだけではなく、逝く人の人生の整理、終焉にかかわること、そこに自分がどう存在し、自分のなかで逝く人がどう存在したか、それは最後の切なく、苦しく、ゆるりとした時間のなかで確かめられることです。更にはそれを心におさめ、糧として引き出せる想像力。大切な人は死してなお、自分を守ってくれるものです。
『人はなぜ人を殺してはいけないのか。』子供たちのこんな愚問を問題としてとりあげなければならない今が悲しい。大人が情けない。言葉で解答を求め、差し出そうとするのが間違ってると思うのです。
死はそこで終わるものではなく、そこから播種してかならずや関わってくるものです。
人としてもうひとつの森の破壊を見過ごしてはいけません。
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by r_dew_1 | 2005-06-27 17:14 | A4  

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