進化。

この時期、暖かい朝にはまだ迷う。
シャキッとそのままの水道水か、温水にするか。
シャキッとする理由もみつからなかったので温水で顔を洗う。

蛇口をひねると今日も正しく温度調整された心地よい温水が排水溝めざして流れ落ちる。
なのに手のひらでそれをすくって顔を洗うなんて、ちょっと原始的な気分だ。

両手のひらは何十年もの地道な訓練でピタリと合わさり器をつくる。
手の器には温水がまるく貯められて、まるい温水を顔のかたちに貼付ける。

でも今朝はまるい温水は出来なかった。
蛇口から流れる水は手のなかいっぱいに貯まる手応えもみせず、ずるずると漏れて排水溝へ落ちていく。
合わせた手を見ると穴が空いていた。
五百円玉くらいの穴が手のひらの真ん中に右手左手ひとつづつ。

「あれぇ〜?」
意表をついた出来事に固まって眺めていると、ずっと昔から空いていたような気もする。
珍しい手の穴を片目に近づけてのぞいてみたり、左右のひらを裏返したり重ねてみたり、ぶらぶらと振ってみたりしたけれど幻ではなさそうだった。

「おはよう。なにやってんの?」
妹がうしろから声をかける。
「これ、見て。」
手の穴をかざす。
「なにが?」
「なにって、この穴。」
「手穴でしょ。」
「て、手穴って?」
「お姉ちゃん朝からおかしいよ。どいて、どいて。」
洗面所に立った妹はゴム製のキャップのようなものを手慣れた動作で左右の手穴にはめると、いつものように水を受けて顔を洗った。

ダイニングへ向かうと、家族の朝はいつもと変わりない。
自然、それぞれの手に目がいく。やっぱりみんなが手穴を持っている。

「ねぇ、これって何?」
誰にともなく聞くと、訝しそうに私を見る。
あとから食卓についた妹が、
「お姉ちゃん、おかしいんだよ。」と、さらりと受け流した。

朝食を前にして、手穴に指を差し込んでみると、すぐさま母に
「子供じゃないんだから、手穴にそんなことするんじゃないの。」とたしなめられた。
私は気になる手穴をあきらめて、疑問が解決されないまま朝食をとった。

「いってきます。」
外に出て歩き出すと、案の定スースーと手のひらに風が吹き抜ける。
それじゃなくても気にかかって仕方ない手のひらにいっそう神経が集中してしまう。

道ゆく誰の手を見ても手穴はあった。
つり革につかまる手、新聞を読む手、ケータイする手。バッグを持つ手。
どんな手にも穴が空いていた。
そして不思議にもこれまでの穴のない手とは機能的にもそう変わりがないのだった。

もうどうでもいいような気持ちで会社の席に着く。
迫っていた締め切りを思い出した。気持ちを切り替えなくては。
「あれ?」
キーボードがない。

「どうしたんですか?」
向かいの後輩が声をかけてきた。
「キーボードがないんだけど。」
「キーボードってあの、楽器の?」
「えっ?」

後輩の手穴には何か丸いものがピタリと収まっていて、瞬時に悟った自分の勘が当たらなければいいと願っていた。
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by r_dew_1 | 2006-11-06 01:43 | A4  

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